「『学術的に』研究する」ということについて

先日、井庭先生に修士に書く研究相談に乗ってもらったのだが、ぼくの構想の甘さに直面した。


学部の卒論としては、「『アウトプットから始まる学び』を支援する方法論とツールを提案します」というテーマとなる。これは、初年次教育に取り組む大学教員を支援する実践面で有用となるカタログになる予定である。この研究は、あくまで「実践的に有効性があるものをつくる」という面で意義がないわけではないが、「学術的」な研究とは言えない。なぜなら、「つくって実践してフィードバックを得ました」という研究は、誰もが同じ手続きを踏んでも同じ結果とはならないからである。
(ただ、このような研究が「研究」として認められるのがSFCが優れた点であるともいえる。学術的でなくても、実践的に使える新しいモノが生み出すことが、SFCでは「研究」として認められるのだ)

ぼくは、この延長で、「パターンランゲージ」でこのテーマをもう少し深めるつもりだったが、修士論文では、やはり学術的な手続きを踏まえるコトが求められる。パターンランゲージも、実践面での有効性は認められても、学術的に証明するのはとても難しい。


「学術的に」研究するには、以下のことがシンプルに言える必要がある。
1、「何に取り組むのか」:テーマ、観点、研究対象
2、「どうやって取り組むのか」:手法、手続き
3、「そこから、何が言えるのか」:研究が新しく開く知見
特に、2に関しては、同じやり方で誰がやっても同じ結果になる手続きでなければならないのである。(その意味で、パターンや教育が学術的研究になりにくいのである)

例えば、井庭先生のリナックスオープンソース開発の研究では
1、リナックスオープンソース開発のメカニズムを明らかにする
2、初期のメーリングリストを分析し、会話の連鎖を抽出する
3、オープンコラボレーションのコツ・方法論を提言
となる。
ここで、1に関して、「『リナックス』という信頼が生まれる前に、いかにしてオープンソース開発にコミュニケーションの連鎖が生まれたのか」という「不思議」がある。つまり、一人の大学院生が始めたソフトウェア開発に、どうしてたくさんの人が参加したのか、という、「ありそうにない現象」があったのである。


この、「ある具体的な現象に対する『不思議』」というのが、学術的な研究の出発点になるのだろう。


そんなことを思いながら、「創造的論文の書き方」(伊丹敬之、有斐閣、2001)を読み返した。すると、いい研究テーマを見つけるポイントとして、「不思議であること」や「小さな入り口で奥行きの深い部屋へ入ること」や「10年続くテーマ」などが挙げられていた。おそらく、「小さな入り口」というのが、ポイントの1であり、それが「10年続くテーマの一部だ」ということを3で語るコトが大事なのだ。


なるほど。


次は、ぼくの番だ。